私が書く、理由(わけ)

さっぽろ雪まつりに行ったことはないけれど、雪まつりの季節になると必ず思い出す人がいる。
もうお顔も思い出せない、一度だけお話したことがある、私が子供の頃に亡くなった人。
当時小学生の私には「大人」はみんな「大人」で詳しい年齢はよく分からなかったけれど、今思うとお会した時のCさんは50代前半、現在の私くらいの年齢だったと思う。

Cさんは伯母の知り合いで、札幌に住んでいた。
観劇がお好きで、年に数回東京で舞台を観るのを楽しみにしていらして、私と母が偶然世田谷の伯母の家を訪ねたとき、上京していていらしたのだ。

その時は他にも伯母の友達や知り合いが沢山いて、今で言うホームパーティのような、わいわいがやがやとした賑やかな雰囲気だった。
私は昔も今も人混みが苦手で、大人の女性があちらでもこちらでも元気にしゃべる姿に圧倒されてしまい、部屋の隅で小さくなって本を読んでいた。
できるなら別の部屋に行きたい、あるいはカーテンの中に入り込みたいと思ったけれど、ここは自分のうちでないから行儀よくしていなくては…という思いもあり、とにかく目立たないようにしていた。

たまにちらちらと顔を上げると、カラフルな洋服がひらひらしていて、皆さんとても嬉しそうだ。しかしよくよく見ると、みんながみんな楽しそうではなくて、中には静かな人もいた。「壁の花」というほどではないけれど、どことなくいたたまれないような、もしかしたら何かの流れでここに来てしまったけれど、実はあまり知り合いがいないのかもしれない…そんな人。
お茶を静かに飲んで、時折微笑み、飾られた花に少しふれ、またお茶を飲み、俯いて…
それがCさんだった。

ところで、当時私は常に本を携帯し、所かまわず読みふけっていたけれど、決して賢い子ではなかった。
2歳から4歳という言葉を集中的に覚える時期に父の仕事でフランスにいて、一番はじめに覚えたのはフランス語。当初両親は日本に帰国するつもりがなかったので、私に日本語を教えなかった。
孫会いたさに訪ねてきた祖母が森進一のファンで、私と一緒に「襟裳岬」のテープを聞いていたそうで、私の日本語の知識は両親の雑談と「襟裳岬」から出来ていた。大家さんとフランス語で話し、幼稚園もフランスの一般的な子が通うところだったから当然フランス語を話し、道行く人ともフランス語で話していた。
もちろん子供のおしゃべりだけれど…。

しかし人生にはよくあることだけれど、目論見は覆され、予定は変更され、急遽帰国。
当時は帰国子女の言語の適応についてなど特に配慮されることもなく、普通の幼稚園に入り、(当然のことながら)日本語が下手なので全然なじめず、小学校では壮絶ないじめに遭い、私はフランス語を完全に忘れる(今もしゃべれない)。
…と言うか、しゃべるたびにいじめられて、それがトラウマになったのだろうか…、一時は日本語もフランス語も、何もかも全然しゃべれなくなってしまった。
先生たちも気にしてくれていたそうだが、「英語ならまだしもフランス語なんて全然分からなくて、どうしようもなかった」とあとで聞かされた。

「長靴」というべきところを「ブットゥ」と言ってバツをもらい(フランス語なら合っているんですけれど…)、折り紙を選ぶときに「ピンクと言って通じるのかな? またいじめられると嫌だな。桃色は古い言い方かな…」と真剣に悩んだのを今も覚えている。
折り紙を持って「さあ、好きな色を選んでね」と微笑んでいる先生の顔に徐々に不安の色が浮かび「この子は優柔不断なんだろうか、それとも今は色を選ぶんだということすら分っていないのかも…大丈夫かしら」と思っているのも伝わってくる。
仕方なく好きな折り紙を指さして、その場を切り抜ける…。

そんなわけで常に「この言い方でいいのかな? 怒られないかな?」と考え込むから毎日クタクタで、でもどうしてクタクタなのが周囲には全然理解されず、とにかく早急に日本語を使いこなせるようにならなくては…という思いだけが募った。

幸い…では全然ないが、私は今なら警察沙汰になるレベルの酷いいじめにあっていたため、今でいう保健室通学に似た図書室通学。授業以外は図書室にいることが多く、司書のおばさんと仲良くなり、書棚の本を片端から読み始めた。面白そうとか、そういうことは関係なくとにかく片端から。
だから喋れないけれど聞き取れる、本は読める。リスニングとリーディングはまあまあ出来るけれど、スピーキングとライティングはからっきしダメな、そんな子供…。

先生の名誉のために書き添えるけれど、その小学校は地域でも決して悪くない、むしろ入りたい人も多い学校で、優秀で熱心な先生たちが心を砕いてくれたと思う。当時の担任の先生と母との往復書簡(手帳)が残っていて、今読み返すとただでさえ忙しい小学校の先生がここまでして下さって…と感謝しかない。私は忘れ物が多かったし、整理整頓もできないという言語以外にもかなりの問題児だったから、今は先生に「その節はご迷惑をおかけしました」と心から思う。
本当に、ただ単に、当時は帰国子女をどうするかのノウハウが全然なかったのだ。
そしてノウハウがないので仕方ないのだけれど、周囲の子供達の奇異な視線からの防壁が無く、防壁がないだけにいじめはどんどんエスカレートしていった。

万引きしろ、金を持ってこい、身体を触らせろという今なら普通に「恐喝だし、性的いやがらせですよ」ということすらあって、当然学校には行きたくなかったし、消えてしまいたいと何度も思った。本当によく生き延びたなあ…と思う。
50歳になったから、そして今は夫をはじめ優しい家族がいるから書けるけれど、このことは辛すぎてずっと書けなかった。
話そうとすると体が硬直するほど恐ろしかったし、相談しようかと思っても自分のことより「相手がどう思うか」を考えて口に出せなかった。当時はこんな言葉を知らなかったけれど、話すと「フラッシュバック」する。瞬時に心が凍り付く。こういうことは、改めて表現できるようになるまで本当に時間がかかる…。

話は戻るけれど、つまり、私は伯母の家のパーティの片隅にいながら、実は呑気とは程遠い、心がどんよりと沈んでいる子どもだった。

母が一人で佇むCさんに気付いて、話しかけていた。
「どこにお住まいなんですか?」
「東京にはいつまで?」
二人は初対面のようで、でも母が話しかけたことでCさんの表情は何段階か明るくなった。
Cさんが私の方を見て
「大人しくしているのね、偉いわね」
と褒めてくれた。
母は
「あまり元気がないんですよ。今の学校になじめなくて、引越が多かったせいだと思うんですけど…」
母もすごく心配してくれている…、子供心にそれも分かっていた。
するとCさんが突然しゃがみこんで私の目を見て
「ご本が好きなのね。おばさんも大好きよ。おばさんは手紙を書くのも好きなの。やすこちゃん、おばさんと文通してくれませんか?」

母がうちの住所を伝えてくれたのだと思う。
しばらくして札幌のCさんとの文通がはじまった。
Cさんのお手紙は毎回とても長くて、しかも面白かった。
便箋に縦書きでびっしり6、7枚、長いときは10枚以上。
内容は子供にもわかるようなこと、たとえば札幌はとても寒くて冬には雪が積もること(当時私は雪とは無縁の場所に住んでいたから新鮮な情報だった)、いろいろな動物がいること、自然がとても豊かなこと、食べ物がおいしいこと…。
一通りの北海道・札幌情報が終わると、今度はCさんの生活について。
毎日会社に行くこと。会社にいろいろな人がいること。通勤するバスから見える風景がきれいで、特に木や花に目が行くこと。頂いた食材で料理してみたら失敗したこと。休日にデパートに出かけたこと。夏休みに海を見に行ったこと…。

こちらは特に面白いことのない生活だから、基本的にはCさんのお話に反応するだけ。「ゆきをみてみたいです」とか「しずおかはまだあついです」とか。
当時私は近所の山に出かけて「土粘土(つちねんど)」と呼ばれていた粘り気のある土を採集することに熱中していたので、時折そのことについて力を込めて書くことはあったけれど、その面白さがCさんに伝わったかは分からない…。

しかし、とにもかくにも下手な字で返事を書くと、驚くほど速くお返事が来た。
分厚い封筒の外側に
「早く届けてね! 郵便屋さん、がんばって! 」
なんて書いてある。
私も同じ気持ちだった。
逸る気持ちで開封して、毎回夢中で読みふけった。
そしてまた返事を書く。
毎日重い足取りで学校から帰ってくるけれど、家のポストを覗くときは一瞬心がうきうきした。
今みたいにメールがない時代、手紙はポストに投函してからが本当に長い。
次第に、待っている時間に「次に何を書くか」も考えるようになっていた。

やがて
「いい? 頂いたお手紙には必ずお返事しなきゃだめよ」
と言っていた母が、
「そんなに頻繁に書いたら切手代がかかるわ」
とぶうぶう言うようになり、気が付くと私は母にいやがられるくらいの大量の文章を、短時間で書けるようになっていた。

そしてあれほど苦手だった漢字を自然に覚え(たとえば「物」という字がありますが、あの「勿」の部分って何本線を引くのかいつも考え込んでいました。今は書けますが…)、時には作文コンクールで賞をもらうようになり、小学校3年生になった頃、クラス替えの効果もあっていじめはパタリと無くなった。
私の周りの世界は、一気に色を取り戻し始めた。

生活が楽しくなると書きたいことも増えて、Cさんとの文通はそれからも活発に続いた。
私はこのあたりから子供向けのミステリー小説にドはまりしはじめ、江戸川乱歩全集を皮切りにシャーロックホームズ全集、ルパン全集、クリスティ…という王道を読み漁り、江戸川乱歩はエドガー・アラン・ポーという人から名前をとったらしいということでポーを読み、ガストン・ルルーを読み、エラリー・クイーンを読み…と忙しくなっていく。
そしてその度にCさんは子供によるミステリー書評を読まされるという、今思うと「本当にごめんなさい!!」と平謝りしたいような内容の手紙を量産していた。まあ、土粘土よりはいいかもしれないけれど…。
ただ可笑しかったのは、私の成長を感じてかCさんも会社の面倒な人間関係とか、脚腰の痛みとか、今思うと通常は「子供に言わないなあ」という話題も書き送って下さって、私はそれも子ども扱いされていないようで嬉しかった。

ところがある日、ものすごく薄い封筒が届く。
「やすこちゃんごめんね。おばさんはこれから入院します。病院からお手紙が書けないの。退院したらまたお手紙するわね」
心なしか、いつもより元気のない、小さな文字だった。
そしてそのすぐ後に、Cさんが亡くなったという知らせが届く。
受話器を持った母が
「嘘でしょ、若すぎるわ!」
といつもより大きな声になったのを、よく覚えている。
まだ還暦前だったそうだ。

その時私がどう思ったのか、よく覚えていない。
ただ、「ああもう、文通は出来ないんだ」とは、理解した。
「入院します」のお手紙のあとに「お大事になさってください」とお返事しようとして、でもそれだけではつまらないし何か書こう…もしかしたら病室で読んでもらえるかもしれないし…と思っていた矢先だった。

Cさんが亡くなって数か月後くらいだろうか…もっと後だったかもしれない。上京して伯母の家を訪ねた。偶然、またホームパーティが開催されていた。
もう慣れたもので、私はいそいそと飲み物を持って別の部屋に引きこもる用意をする。
部屋から出ようとしたとき、伯母たちの会話が聞こえた。

「Cさんもかわいそうよね。本当につまらない人生。結婚もしない、子供もいない、楽しみといえぱ舞台を観に来てたことくらい」
「席だっていつもすみっこなのよ。せっかく出てくるんだからいい席で観なさいよ、って何回言ってもきかないの。節約して節約して、そのお金が薬代に消えちゃうなんてね…。やだやだ、私達は楽しまなきゃ損、損、よね?!」

…ソンソン…か。
私は別の部屋に入り、窓を開けた。樹々や葉擦れの音がすると、伯母たちの会話が聞こえてこなくていいのだ。
窓辺に座ると、風がどっと吹き込んで、声という声はすべて消えてしまった。

あーあ。
あの人達、何にも分かっていない…。

Cさんのお手紙は、毎回毎回、小さな封筒からあふれるほどの驚きや喜びや、時にはちょっとした哀しみや…子供に伝えられる程度のことだけでも、あれほどまでに豊かだったのだ。
例えば通勤バスからの眺め、雪が降り出して落ち葉が少しずつ白くなる美しさ、街路樹を吹き抜ける風の爽やかさ、瑞々しい新緑のきらめき。バスの中でのちょっとした会話のぬくもりや、途中で忘れ物に気付いたときの焦りや笑いや…。
雪まつりに一人で出かけたら、雪像と会話できたような、そんな気持ちになったというお話もあった。
とても大きな、見上げるように大きな動物たちと親しくなったり、雪で出来た有名人の悩みを聞いたり…。冗談めかして書きつつも、Cさんは本当にいろいろなものと交流できたのだ。
Cさんはいつも「後ろにいる人達、もの」のことを忘れない人だったから、雪像を作ってくれた人達や「雪」そのものにも、とても感謝していた。
「札幌は寒いけれど、こんなにきれいなものを毎年見られるの。とってもありがたいわ。やすこちゃんもいつか見に来てね」

Cさんの最期は見ようによっては寂しい、うらぶれた様子だったかもしれない。あれだけ頻繁に文通していても家族に関する記述はなかったから、病室に1人だった可能性もなくはない。
でも、そんな中でも彼女は最後まで、この世の素敵なところを、次の手紙に書けることを見つけて喜んでいたかもしれない…とも思う。むしろ、そうしていた方な自然な気がする。
だって、いつだってそうしてきたことを私は知っているから…。

私の両親はそれからも引越しを繰り返し、そのどさくさで文通の手紙の束は無くなってしまった。Cさんの写真は残っておらず、もうお顔を思い出すこともできない。
手紙くらいはとっておけば良かった…と思うこともなくはないけれど、でも私はCさんの文体を覚えている。
そして文体を覚えているということは、Cさんがどういう風に世界を見ていたか、もちろん完璧にではないにしても…、私は理解している。
だから、それでいい、と思う。

そういうわけで、私は今日も、書く。
手紙というのは、貰いっぱなしというわけにはいかないのだ。
Cさんから沢山お手紙を頂いた、世界の美しい見方を教えてもらった。その後も沢山の素晴らしい書き手に出会い、人生がどんどん豊かになっていった…その御礼を、返信を、今日も書く。

私は日本人だけれど「日本語ネイティブ」かというとかなり怪しい生い立ちだ。だから、文章が下手なのは十分自覚している。でも、だからこそもっと上手くなりたいと思うし、下手っぴいだから、いろいろな人の文章に、心に触れて驚ける。
多分一生、私は書いて、読んで、また書いて、忙しい。
ただ、この世には数多の綺羅星のような作家がいるけれど、たとえ無名でも驚くような文章家が沢山いるけれど、私が一番最初に、そして一番最後に思い出す書き手は、手紙で私を救ってくれた人…雪まつりの中を一人で歩くCさんなんだと思う。

今年もまた雪まつりの季節がやってきた。

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