お客様連絡帳 A様 その7

そんなある日、以前もお見えになったことのある、Aさんのご近所だという方がいらした。
普段はお友達といらっしゃることが多いが、その日はお一人。

蕎麦を食べ終わって一息つくと、静かに語り始めた。

「女将さん、私たちがAさんに冷たいと思ったでしょう。思うわよね。あんなおばあちゃんをほっておいてね。本人は子供が来るっていうけど、実際はめったに来なかったの。それも知っていたんですけどね…」
息子さん達、やっぱりあまり来ていなかったのか。しかし周囲が冷たいなんて私は全然思っていなかった。Aさんからもそういう愚痴は聞いたことがない。この方も以前のぼや騒ぎのときは駆け付けたそうだし、普段からむしろ気にかけていらしたのだと思う。

「若いときから裕福なくらしを鼻にかけるっていうのかしら、ふつうの人を小馬鹿にするようなところがあって…。歴代のお手伝いさんや出入りのクリーニング屋さん、よく来る酒屋さんとかね、皆さんすごくいやがってたんです。でもまあ息子さんたちもいらっしゃるし、ご主人はそれは温厚な方で、だから私たち近所もふつうにお付き合いしていたんですけどね。
でもね…」

そば茶の湯飲みをじっとご覧になる。

「ご主人がなくなったときのことご存知かしら? 知らないわよね、昔のことですもんね。
…あのね、これはすごく前の事だし、本当はどうだったなんて誰にも分らないんだけど
…ご主人は心臓だったかしら、脳溢血だったかしら…私も忘れちゃったけど、とにかく会社で倒れて、でもそれほど重い状態ではなくてね、自宅で療養なさってたんです。もちろんAさんはああいう方で何もできないから、いつものお手伝いさんだけじゃなく付添婦さんもつけてましたよ。でもその人たちがお盆休みをとっていた間に、ご主人が亡くなったの。救急車やらいろいろ来てね、大騒ぎでしたよ」

できれば続きは聞きたくはない気がしたけれど、彼女は多分この話をするために来て下さったのだ。
「で、いろいろ調べてみたら、Aさんの家族が病院に電話したのがご主人の死後数日たってからだと分かったの。要はね、遺体をしばらく放置してて、何日かしてから連絡したそうなのよ。Aさんが言うには、ご主人が亡くなってすっかり動転して、数日してやっと息子さんに連絡したって。で、息子さんが慌てて電話したみたいなんだけど…。

だけどね、いくら何でも死んですぐにどこにも連絡しないって、そんなことあるかしら? 救急車を呼ぶとか、そういうこともしなかったんですよ。いつもみたいに遊びまわって、放っていて気づいていなかったんじゃないかしら? 大体毎日ご飯を上げていたのかしら?」

確かに、家で人が亡くなったのに誰にも連絡しないなんて、普通では考えられない。

「旦那さん、いい方だったのに、何日も放っておかれたってことですよ。おかわいそうに。本当におかわいそう…。私達ですら悔しかったのに、まして息子さんはお医者さんでしょう、かなり怒ったそうなの。激怒して、以来会っていないんじゃないかしら。お医者さんにならなかった…どこかにお勤めの下の子だけはごくたまに来ることもあるみたいでしたけど」
真相は藪の中、何か事情があったのかも…と思いつつもAさんなら悪意なく看病の手を抜くこともやりかねない気がした。

とにかくこらえ性がないのだ。飽きたら、先のことなど考えずに、やめてしまう。

なぜなら、本当のお姫様だから。

もちろん、慣れない看病を彼女なりに頑張っていた可能性もなくはないし、本当に動転してどうしていいのか分からなくなった可能性もあるけれど…。

「介護がつらいのは私もやっていたからわかりますよ。でもね、何年もやっていたんじゃないですよ。付添さんのいない、たった一週間。それなのに!」
結局事件性はないということになったそうだが、以来息子たちとは疎遠になり、そこからAさんにとって人生初の一人暮らしがはじまった。

あちこちで外食するなら食事の用意のために人を雇う必要もないということで、息子たちはお手伝いさんの契約も打ち切ったという。
近所の人たちは少しずつ少しずつ庭が荒れていく様子、玄関先に段ボールやゴミ袋が何日も置いてあったりするのを見て、複雑な気持ちになった。
しかし手伝ってあげる気にもなれなかったという。実際当初はAさんも60代で、まだまだ元気だったのだ。

Aさんはおしゃれしてあちこちに出かけ、電車で遠出もしていたらしい。そのころはまだお茶をしたり電話したり、同世代の友達もいたようだ。

しかし年齢が進むにつれ出かける先は近所になり、ちょっと遠出するのは病院に行くときくらい。一番多いパターンは一駅先まで歩き、そこのなじみの店でおしゃべりし、電車で最寄り駅まで戻る。駅の近くの食堂で食べて、帰宅する。その駅の近くの食堂の一軒が、うちの店だったというわけだ。
「とにかくよく出歩くのだけは偉いなあと思っていましたよ。まあうちのことをしたくなかったんでしょうけど。あれだけ荒れ放題だと、家にいたくないでしょうしね…。

もうすぐお屋敷も取り壊されるそうです。息子さんだと思うんですけど、丁寧に分別したゴミが出してあって、少しずつ処分してるんでしょうね。私は一言ご挨拶したい気もするんですけど、息子さんは会わないようにしているみたいで…なんだか寂しいけど仕方ないですね」
Aさんが一人暮らしをはじめてからの約30年間、短くないその時間、心優しい彼女は近くにいてずっと複雑な心境だったのだろう。
私は、なぜかAさんが置物を店に持ってきたことを思い出していた。
「これをここに置いてほしいのよ。職人に作らせた、いいものだからね。うちにあっても仕方ないしね」
五センチに満たない小さな張り子の動物だ。干支の飾りだという。「困るわ~うちにはうちの趣味があるのよ~」と言ったのに
「ここに置いてくれるとね、すごく落ち着くのよ」
と勝手に置きもの用の敷物まで持ってきて、設置してしまった。Aさんは来るたびに「小さいけど品があるわ。かわいいわ」と喜んでいた。

そうか、この置物はお屋敷の取り壊しに巻き込まれずに済んだわけだ…。

続く

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