お客様連絡帳 A様 その9

般若心経が完全に私の朝の習慣になった、そんなある日、ふと、なぜか
般若心経が覚えられるなら…英語をやり直してみようかな??
という気持ちになった。
その頃夫が熱心に中国語を勉強していたのも影響しているのかもしれない。
当初は夢中で勉強している彼を見ても
「がんばってくださーい(棒読み)」
と完全に他人事だったし、語学は、説明すると長くなるけれど私のトラウマ的苦手分野。出来たら一生触れたくなかった。

私は二歳から四歳の言葉を覚えるころ、父の仕事で海外にいて、一番はじめに覚えたのはフランス語だった。
両親は当初は日本に帰るつもりがなく、ずっと海外にいる予定だったので、私にきちんと日本語を教えていなかった。
しかし事情が変わって帰国、日本語がしゃべれない私は長期に渡るひどいいじめに遭う。私がしゃべるのがフランス語で英語ですらないから、先生をはじめほとんどの大人も理解できず、助けたくても難しかったと後から言われたが、とにかくいじめはだんだんエスカレートして性的いやがらせも含むかなり悪質なものになったため、私はショックでフランス語を話せなくなつた。とにかく、そこから改めて日本語を覚え、中学からはみんながそうするように英語を勉強した。

しかしフランス語のトラウマというか、外国語をしゃべるといじめられた経験は心の底にいやな感じでずっと残り、外国文学は好きだけれど、外国語とは関わりたくないな…と思っていた。
日本語は日本語で「日本人だけれど(厳密には)ネイティブではない」というコンプレックスが常にあり、なんとか上手くなりたいという気持ちと、どんなに頑張ってもダメなのではないかという諦めが同居している。
無駄にストレスの多い人生なのだ。
つまり、語学に関しては、とにかくあまり触れたくない…。
そんな日々が長く続いていた。

でも、なんだか、根拠はないのだけれど、その時は「今ならできる」と思ったのだ。
だって般若心経を覚えられたのだし。
とりあえず本で勉強をはじめ、好きなスヌーピーを原文で少しずつ読み、YouTubeで耳を慣らし、ちょうど自宅の近所にチェーン展開している英会話学校ができたので、ダメ元で入ってみることにした。
私は学校と名前のつくところは大概水が合わないので、今回も続かないかもしれないけれど…

恐る恐る行ってみると私が入った平日昼間のクラスには海外に住んでいたこともある主婦、補聴器をつけて頑張る元駐在員の80代男性、英文科卒というほれぼれするような美しい筆記体を書く女性、と優秀な人たちばかりだ。
つ、ついていけるでしょうか…。その上教室内は日本語禁止だそうで…。
ものすごく不安になっていたら、英文科卒の方がにこやかに
「大丈夫よ。一時間外国に来たと思って、身振り手振りを使ってもいいのよ。英会話ができると旅行に行っても安心だし、いろいろな人と話せて楽しいしの。一緒に頑張りましょうね」
ユーモアを交えた流暢な英語を話すおじいちゃんも
「何年やっても分からないことだらけですけどね、だからこそ長く楽しめますよ」
と励ましてくれる。
主婦の方からは、
「単語も構文もゲーム感覚で覚えられるわよ。私もやっているの」
と、初歩から学べる英語の無料学習アプリを教えて貰った。
そんな方々のおかげで、授業は毎回難しかったけれど、しかし不思議とやめたいという気持ちにはならなかった。

勉強をはじめて半年ほど経ったころだろうか。授業が終わり、私は初冬の冷たい風の中を家まで小走っていた。
これから家で着替え、八百屋さんで買い物をし、100均で伝票やビニール袋を買い、店に行って…
黄昏の小道、沈みゆく太陽の光が溢れ、歩く人の影が長くなる時間。
もう少しすると、Aさんが重い荷物を持ってえっちらおっちらといらっしゃる時間帯だな…。
ふと彼女との最後の会話を思い出した。
「あなたにはお礼をしなくちゃね!」
あっ!!
あーー!!
えーっと、あ、あの、もしかしたらこれ、私へのお礼でしたか?!
Aさんが亡くなって、なぜか心がザワザワし、だから仕方なく般若心経を覚え、久しぶりに頭を使ったら勉強したくなり、そうしたらになぜか近所に英会話学校ができて、行ってみたらら思いがけなく優しい人たちに囲まれて継続することが出来、結果的に私の心の傷はひとつ癒えつつあった。
勉強に夢中でこの経緯を忘れていたけれど、スタートはAさんだったのだ。
「趣味のひとつも見つけておけば良かった」
「年をとってからも楽しめる、役に立つことを勉強しておけばよかったのよ。多少面倒臭くてもね…」
だから私には外国語学習という趣味を?
そういえば学習内容とは別に、クラスメイトとの出会いにも恵まれている。
補聴器をつけて流暢にしゃべるおじいちゃんは、勉強のスタートが40代後半で…と頭をかく私に
「40代なんて若い若い。私なんて空襲を覚えている世代ですよ。直撃弾で家が全焼して、母と逃げまどいました。でもね、こんなことを言うと不謹慎と思われるかもしれませんが、空が見たこともないくらい明るく燃えて、子供心に美しいと思いましたね」
と言っていたっけ…。
そうそう、Aさんはこういう方とお話したかったんですね…。

全部、私の思い込みかもしれない。
人間は話をまとめたがる傾向があるし、私の心のざわざわは実はAさんとは何の関わりもなくて単に更年期の症状のひとつで、死んだおばあさんより自分の女性ホルモンの減少に思いを馳せるべきなのかもしれない。
大体私はもともと多趣味だ。学校が苦手だったから一人楽しめることには常に力を入れていて、読書、映画、美術鑑賞(好きすぎて学芸員資格を取得)、音楽ライブに行くこと、医療系のライターをしていたので健康情報おたくだし、最近はYouTubeも面白いし、緑茶や紅茶が大好きで…、これに語学が加わったので、落ち着きのなさに拍車がかかってしまった。
もちろん週5で店に立つ、蕎麦屋の女将だし。
こう見えて私、結構忙しいんですよ…とAさんにも話していたけれど…そうか…そうでした。Aさん、常に私の話は聞いてなかったですね。
夕日の中を小走りながら、笑いがこみあげてくる。
Aさん、英語すごく面白いです。続けられそうです。
姫は夕方の光の中に溶けていき、どうやら私はこれから少しずつ彼女を忘れていくらしい。
忘れて、人生の一部になって、当たり前のように一緒に生きていく。

おわり

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