梅川雅己(まさみ)さん・寿司「梅川」店主 その2

梅川
当時船は、大きさにもよりますけど大体22、3人で乗ることが多かったと思います。
僕が乗った第35福積丸は19人でした。人数が少ないと1人分の仕事が増えますから、1人頭の仕事量は通常より多かったのかもしれません。
構成は漁撈長、船長(その下に一等航海士)、機関長(その下に機関士、機関員)、コック長、無線長、そして甲板長、その下に僕ら甲板員。

初めて乗るのは21歳の僕だけで、あとは経験者ばかりでした。
最近は水産高校を出ても漁師になる人は少ないらしいですが、当時は水産高校出身者が多かった。あとは親が漁師の人。田舎では仕事がなくて働きに来た人。そして理由(わけ)ありとか、何やってんのかよく分からない人とか…。
全員が年上でした。

船に乗って、まず大変なのは船酔いです。まれに全然酔わないという人もいますが、大概みんなやられるようです。
僕はひどい方だったかもしれません。食事は喉を通らないし、水も飲めないくらい気持ちが悪くて…いちおう食事の場所には行きますが、箸を持つ気にもなれなかった。一週間くらいしてやっと少しずつ食べられるようになりました。
漁場であるケープタウン(南アフリカ)に着くまでに35日くらいありますから、徐々に体をならしていきました。

ただ、どんなに気持ちが悪くても、2日目から仕事ははじまります。2人体制、3時間交代で見張りをするんです。
当時も目的地をインプットする自動運転でしたから、基本的に危険は無い。ただすごく小さな島とか、小舟とか、想定外のことがあるので必ず見張りはつけなければいけないんです。
僕は気持ちが悪いので、いつ吐いてもいいようにバケツを持って見張っていました。
ある時甲板長と2人で見張っていましたが、2人とも疲れて眠ってしまったことがありました。
ちょうどインドネシアの海峡を抜ける時です。ここは小さい島が多いし小舟もいっぱいいる。手動に切り替えて対応しないといけないのですが、2人とも寝てしまって、パッと目が覚めたら、目の前に大きなタンカーがあった。大慌てでギリギリで手動に替えて、なんとか衝突を避けましたが…これは2人しか知らないことです(笑)。最終的には人の目が必要なんです。

ただ船の事故は基本的には少ないです。時化(しけ)でひっくり返るということもほぼありません。船はどんなに揺れても大丈夫な造りになっていて、どんなに時化ても船に対する絶対的な信頼感があるから安心している。逆にそこが不安だと乗っていられないですよ。
とにかく海に投げ出されなければ大丈夫と思っていました。

お隣
しかし漁場に着くまでに35日とは…やはり長旅ですね。

梅川
この船はケープタウンまで行き、そのあとオーストラリア(パース)沖に行って焼津に帰ってくるまで約1年でした。もっと長く帰らない船もあります。

20人近くが長期間逃げ場のないところにいるわけですから、ルールがありました。これは船によって違うようですが、僕のいた船は共有スペースでの飲酒が禁止。つまり一人で呑むならいいけれど、二人以上で呑まない。僕ははじめてだから、飲酒そのものが禁止。
それから賭け事(賭博)は禁止
これは厳しく守られていました。

特に新しいことが起こるわけでもないから、噂話などもすぐに広まってしまいます。僕はついプライベートなこともしゃべってしまって、1人に話したつもりだったのに、10分後にはみんな知っている(笑)そんなこともありました。

娯楽はビデオ、小さいですがそれぞれに部屋があってビデオが見られます。立ち寄った港で日本の船がいると、これまでに見た大量のビデオを持って行って
「すみません。ビデオの交換をお願いします。第35福積丸です」
「ああ、いいですよ…」
なんて、ビデオ交換ですね。そうやって長い航海を飽きないように工夫するんです。
ちなみに港に日本の船があるとすぐ分かります。きれいなんです。掃除が行き届いている、サビていない、魚臭さも無い。小ざっぱりした船は大概日本船でした。

余談ですが…帰国してから静岡新聞を読んでいたら
「S丸の冷凍長が船長を刺殺。操業を中止して、冷凍庫で死体を固めて帰国中…」
と記事が出ていて、
「これ、あの時ビデオ交換してくれた人だ!! 殺されたんだ…」
なんてことがありました。
全国紙には載りませんが、地方誌にはこういうことも載るんで、うわー、そういうこともあるんだ…と驚きましたね。
他の船はアルコールOKだったりして、そうすると喧嘩したり刺殺事件があったり、あとは船から突き落とされたりすると「自殺」になってしまう。酔っぱらって自分で海に落ちちゃう人もいる。

お隣
それは…やはり命がけの世界ですね。

梅川
そうして一月くらいかけてケープタウンに行き、漁場についたらすぐにマグロ漁です。
まずは餌を付けた縄をしかけます。投縄(とうなわ)と言いますが、これを200キロくらい流す。5人体制で順番にやるのですが、人数が少ないとまわってくるのが早い。当番になると睡眠は1日2時間くらいでした。5時間かけて縄をしかけて、2時間休んで、こんどは揚縄(あげなわ)これは12時間くらいかかる。それが終わるとまた投縄…これを繰り返します。
揚縄も、通常は12時間だけれど、時化や逆潮だと大変で、潮の流れで引き上げができないと14時間、15時間と延びていく。
その間は食事も3分くらいで食べて、とにかく働き続ける(食事は通常3食、操業がはじまると夜食も出る)。
マグロは最後は手で揚げないといけないんです。
もちろんラインホーラーとか機械も使いますが、基本的には餌に食いついたマグロを少し走らせて弱らせ、頭とか商品にならないところを銛(もり)で打つ。そしてエラにひっかけて船に揚げる。
あまりにも重いのはホイストっていう電動の機械で揚げるけれど、基本は人間がやります。そして〆て、尻尾とエラ、内臓をとって洗い、すぐにマイナス60度で冷凍します。

これを繰り返すので、本当に重労働です。疲れるし、ぼさぼさしていると殴られる。狭い世界だから誰にも訴えられず、体力的にも、精神的にも追い詰められます。体はだんだん慣れてきますが、精神的に過酷な毎日です。

よく見ていると、僕だけでなく仕事が出来ないのは年長であっても殴られていました。ものすごく忙しいのに体調不良でよく休む人とか、要するに足をひっぱると怒鳴られる。要は戦力になればいいんだ、と気づきましたが、僕は素人だからどうしても分からないことが多いし、しくじったり危険を冒したりする。
ケープ操業の最終日に大時化に遭い、危険なので常に非常ベルが鳴っているような状態で、緊張の中で作業をしていた時にたまたま波の来る方に行ってしまい
「そっちじゃねえ、何やってんだ!!」
とブリッヂから船頭が叫び、多くの船員たちが大声で呼び叫んでくれたけれど嵐で声が届かず、安全なところに着いた時に
「お前、一本波が来てたら死ぬんだぞ!」
と本気で殴られた。そんなに危険だと分からなかったんですが…涙が止まりませんでした。
こういうことは仕方ないです。

ただ、そういうこととは関係なく、ただ理不尽に、意味もなく殴る人もいるんです。
やらない人はやらないですよ。一切殴らない人もいる。でも本当にどうしようもない暴力的な人間もいて…。
僕は立場が一番下ですし、焼津に帰ったら仕返ししよう…と心に決めて、じっと耐えるしかありませんでした。

お隣
帰ってからやり返しましたか?

梅川
それが港についたら
「もうこれきり会わないんだ」
と思って、そんなのにイライラするのもバカバカしくなって仕返しはしませんでした。
僕はマグロ船に乗るのはこの一回だけと決めていたんです。
だから二度と会うことはない。
もう二度と会わないのだから、どうでもいいや、と。

後から思うと、乗るのはこの一回だけ、ということを公言していたのも良くなかったんです。今なら分かりますが、他の人にとっては一生の仕事、それを一回だけ体験したい、なんてね…。
当時は正直に言っていましたが、随分失礼だったと思いますね。

仕事はマグロだけでなく、サメもとりました。
僕はサメの係でサメが揚がると馬乗りになって出刃包丁で〆に行く。頭の後ろを〆て、ヒレをとって、あとは海に捨てる。ヒレだけ一斗缶に入れて冷凍します。本当は天日干しがいいそうなんですけど、けっこう臭くなるので福積丸は冷凍していました。
そしてケープタウンに着いたら業者に売ります。現地のお金でけっこういい額がもらえて、これをみんなで割る。一人何万かにはなりました。
サメはいろいろな種類がいるんですね。大きいと4メートルもありました。僕は200、300…もっと殺しているはずです。

お隣
日本と連絡はとれないのですか?

梅川
当時も緊急用の衛星電話はありましたが、これは高いので使えません。電報を打つ、港から国際電話をかける、あとは手紙です。散々殴られてヘトヘトになって部屋に帰ってくると電報が置いてある。誰からだろう…そういう時は嬉しかったです。子供がいる人は子供からの電報にひっそり涙を流す…そんな世界です。

国際電話も使ったことがあります。殴られ続けて辛かった時、焼津の船具屋さんに電話しました。多分何か感じたのでしょうね、終始明るく話してくれました。僕も辛いとは言いませんでした。でも帰った時に
「あの時に梅川くんの辛さが声で分かった。大変だろう…と言うと余計辛くなるだろうから、言わなかった」

手紙は、船会社が予め家族に連絡してくれて「船は〇日に港に着くから、ついては■日までに会社に手紙や差し入れを送ってくれたら、それをまとめて港まで送りますよ」というような手配をしてくれる。
僕らもその時に手紙を送れる。
家族や友達からの手紙も本当に有難かったですね。

そういう喜びもたまにありますが…
やはり散々に殴られますから船を降りたいという人もいますし、どこかの港に降りた途端逃げ出す人もいます。
逃げてもパスポートがないからすぐ捕まりますが、そういう人はもう船には乗れません。自腹で飛行機で帰ることになり、途中で船を降りる交換条件として必ず替わりの人を手配する。替わりの人が船に着くまでの費用などもすべて出す。
大金がかかりますが…もうお金なんてどうでもよくなるわけです。その気持ちも分かります。

あとは船に乗っていたはずなのにいなくなるとか…。
ある時別の船から連絡があって
「若いのが一人いなくなった」
と。そうすると操業を中止してみんなで探します。夜だと暗いし、潮の流れもあって難しいですが、とにかく探す。
その時は翌日「倉庫に隠れていた」と連絡がありました。
これも気持ちもよく分かります。本当に追いつめられ、逃げたくなるんです。

そんなギリギリの状態で頑張り続けて、もう頭の中は日本に帰ることしかありません。マグロは回遊魚なのでケープタウンでとれなくなると追いかけてパースに向かい、そこでも操業し、一年ほどしたら焼津に向かいます。
僕らは一年なのでとったマグロをそのまま持ち帰りましたが、もっと長く操業する船は途中で冷凍したマグロを別の船に預けて日本に運んでもらうこともあるそうです。

お隣
そんなに長い間頑張る方たちもいるんですね。
魚を食べるときは、漁師さんに感謝しなくては…。

(つづく)

※梅川さんが語るマグロ漁船内の出来事は、今から30年以上前のことです。

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