お客様連絡帳 A様 その1

A様
~本当のお姫様と般若心経、そして私が英会話学校に通うようになった理由

※事実に基づくフィクション

齢90を越えるAさんは失言女王だ。

今日はご機嫌だから、そしてカウンターには他の方お客様もいらっしゃるから、よけいに気を付けなければ…。
お水とおしぼりを持っていきながら、私は頭上のアンテナを少し高めに立てる。要するに、ちょっと警戒する。

案の定

「今日もご苦労様ねえ、本当に毎日大変よねえ」
大きな声でしゃべりはじめた。

「あなたを見ていると毎日本当によく働くと思うのよ、お運びして洗い物してね、こんな仕事つまらないでしょうねえ。それなのににこにこしてね、偉いわねえ。私は息子が4人いるけど、こういうことはさせたくなかったの。だからみーんな医者と弁護士にしたわ。こういうのはねえ、ほんとうにつまらないし褒められないし、大変ねえ。お給金だって安いでしょうにねえ」

私は何度も聞いているから「また言ってる」と思うだけだが、たまたまカウンターにいてこれをはじめて聞いた方々はいっせいに複雑な表情になる。

しかしそういった空気は一向に介さず、Aさんは楽しそうだ。

「息子たちは出世してね、とにかく忙しくてね。海外に行ったりもするのよ。車は全員外車に乗ってる。見せてあげたいわねえ、ずらっと並ぶと壮観よ。最近は国産もいいのがあるけど、外車は断然恰好がいいのよ。庭に外車が何台も並んでるなんて、あなた見たことないでしょうねえ。うちは庭も家も大きくてね、広くて手入れが行き届かないくらいよ。木や花の水やりひとつとっても大事(おおごと)なのよ」
とにかく無邪気だ。
いつものことなのでふんふん、と相槌をうちつつ
「うちは車すらありませんよ~」

などといいながらお蕎麦を運ぶ。車がないのは事実、バイクはあるけれど。

「あらあら!! それは不便ね。前にね、息子の車で、息子のいる病院に行ったことがあったの。御母堂様が来たって大騒ぎになってね。なんだかねえ、申し訳なくて行きづらくなっちゃってね。その時も大きな車で行ったわねえ」
このエピソードももう何回も聞いている。内容や盛り具合に変化もないので、実際これに近いことがあったのかな…と思うが、どうだろう。
天ぷら蕎麦を食べつつも息子の話は続く。麺は普通に茹でると硬くて噛めないというので、やわらかめ。夫はおばあちゃん子だから、文句を言いながらも彼女の要望に応えて毎回茹で時間を調整している。
「生まれたときから運のある子達でね、特に長男。あなた、この近くに御典医がいたのを知ってるかしら。有名な産科があったのよ。そこで産みたかったけど満員だって。でもあきらめきれなくてね、そうしたら流産した人がいるっていうじゃない。やれ嬉しや…ってね、うまくそこで産めたのよ。一度産めば次も…ってね、だからうちはずうっと皇室ゆかりの病院よ。そういう運が強いのね」

これに関しては彼女の近くに他に誰もいなければ特に口は挟まない。ただ、赤ちゃんや子供を亡くしている人というのは、言わないだけでそこそこの確率でいらっしゃるのだ。カウンターに立っていると、そういうことも学ぶ。だから必要な時は、話の腰を折っても釘をさすときはさす。
「Aさんがよい病院に入れてよかったけど、お子さんなくした方はお辛かったでしょうね」
まあ、Aさんは聞いていないが…。

「運がいいといえば、学徒動員でもね、みんなが一日中ミシンを踏んで指を刺したり、油まみれで大鍋をかき回していた時も、私はうんと楽なところにしてもらったのよ。父が偉かったからね。大鍋っていうのはね、特攻隊が最後に食べるものを作っていたんですって。突撃する前に食べるチョコレートのチューブよ。お友達はみんなお腹がすいているからチョコレートをつまみ食いしたいんだけど、絶対食べちゃいけないって言われてたそうよ。特攻の直前に配られるものはね、実は覚醒剤が入っていたのよ」

話の真偽はさておき、この話は聞くたびに「きけわだつみのこえ」を思い出して私は胸がふさぐ。だが、Aさんは

「目の前のチョコレート、食べたいわよねえ。だけど食べなくて正解よ。覚醒剤なんてねえ、そんなことしてるなんて驚いちゃったわよ!」

と毎回明るい声で「呆れた」という風に両手を小さく上げてみせる。
そして遠くから空襲で燃え上がる街を見て美しいと思い、翌日怖いもの見たさで死体を見に行った話になる。

Aさんが住んでいた場所に死体は

「ごろごろというほどはなかったのよね、だけどちょっと歩けばあるのよ。そんな感じよ」

ここは東京で、空襲で逃げ回った人もまだまだ健在だ。目の前で親兄弟を亡くした人も少なくない。父が南方で死んだ、兄が特攻で…という人も実際お見えになる。
だからいくら70年以上前のこととはいえ、この話題のときも気を付ける。
Aさんは元気で明るい話し方だから死体を面白半分に見に行った雰囲気が出てしまうのだ。まあ、それが事実だったのかもしれないが…。

そしていつも通り空襲から火事の心配の話になる。

「火といえば、うちの前が最近更地になったのよ。すぐに草がぼうぼう生えてね。秋冬は乾燥するでしょう? あそこで火遊びでもされたらたまったもんじゃないわ。地主に電話しようかねえ。火でも出たらひとたまりもないわ、誰が責任とるのかねえ」
事情を知っている人たちはここで全員

「最近ぼやを出しのはあんただろう!!」

と内心突っ込むのだが、自分のことに関してはAさんはすっかり忘れている。玄関先で転倒して頭を打ったせいかもしれないし、忘れているふりをしているだけかもしれないが、とにかく自らは省みない。
「こういっちゃなんだけどね、うちは調度品がお高いのよ。なんでもかんでもいいのを揃えちやったからね。燃えたりしたらあなた大変よ。保障でもめたくないわねえ、だから早く草を刈ってほしいのよ。うちが揃えた家具ね、デパートの外商が持ってくるのなんて一点ものばっかりよ。今じゃ買いたくても手に入らないでしょ。そういえば外商が来るなんて、あなた達には分からないわよねえ、デパートなんてわざわざ出かけるところじゃないと思っていたからねえ。いいものだけを見繕って持ってきてもらってね。あなた達が見たこともないようなものばっかりよ」

私のアンテナが何かを受信しすぎてミシミシと音を立て、カウンターにいる人たちがざわざわしはじめる。

こういう場合、まったくの他人同士で年齢もばらばらなのに、カウンターには独特の一体感が生まれる。

Aさんは耳が遠いから普通の声だとほぼ聞こえないのだが、とはいえ全員小声になり

パーカー「あのおばあさん、前もお見掛けしたんですけど…ちょっと変わった世界観ですよね」
ワンピ「昔の人だからね」
タートル「昔の人がみんなああじゃないだろ、金持ちだからダメなんだって」
ワンピ「金持ちがみんなああじゃないでしょ。私は金持ちだけどああじゃないし」
タートル「まあ金持ちもいろいろだけどさ。しかしそんなに金が偉いかねえ。外車だ、高級家具だって、バカバカしい」
ワンピ「これは改心しないまま、逝くね」
タートル「(改心する)チャンスは何十年にも渡ってあったはずだからなぁ」
パーカー「あの…ずっとこうだったんじゃなくて、年をとってさびしいから偏屈になった…とかじゃないですか?」
タートル「あの感じ、出来合いじゃねえよ。もっと基礎から腐ってるって」
パーカー「でもまあ、なんか明るいですよね。思ったことそのまま言ってる感じで」
ワンピ「そのままなのがどうかしてるのよ。宝石なんかじゃらじゃらつけちゃって、このあたり治安がいいからいいけど…」

誤解がないように言っておきたいが、当店のお客様は基本的にとてもやさしくて親切な方が多い。

だからもし90越えのAさんに話かけられたら、たとえ何かを食べている最中でも、ほとんどの方は箸を置いて丁寧に答えを返してくださる。

少なくとも出会ってすぐは。

Aさんは自分が高齢のひとり暮らしで散歩と食事を兼ねてここに来ていること、たまに息子が様子を見に来るけれど家には話し相手がいないこと、カウンターでおしゃべりして認知症予防を心掛けている、と自己紹介代わりに話すから、誰もが
「一人で頑張っているおばあちゃんなんだ、認知症がひどくなったら大変だ」
と気を遣ってくれるのだ。

タートルさんもワンピさんもパーカーさんも、それぞれはじめはうんうんと相槌をうちつつかなり長い時間お話して下さったし、おかしいと思ったことは質問したり、時にはやわらかく反論して話を深めようとしてくれたりした。

だが会話を始めてしばらくすると一様に顔が曇りだす。Aさんは耳が悪いせいもあるけれどほとんど他人の話を聞かないし、そこを耐えて彼女の話を聞いていても結果的に「あんたらに私の暮らしはわからないわよねえ」と「下々のもの」扱いされるので当然と言えば当然だ。

Aさんを昔から知っているという方は
「年をとってぼけてるんじゃないよ。昔からああなの。常に上から、ぶれない上から目線。自分で稼いだ金でもねえのに威張りちらかすの。ぼや起こして、周りが助けても忘れてるしなあ。息子たちなんてすっかり寄り付かねえよ。気持ちわかるよ」

ぼや騒ぎで駆け付けたという女性は

「家はゴミ屋敷よ。足の踏み場もないし、汚いし。靴脱ぐのがいやだったな~。自分じゃ片付けられないっていうの。昔はねえやが全部やってくれたって。料理もできないって、お弁当の箱が散乱してるのよ。あれだけゴミが多いと、ぼやで済んだのが奇跡みたいなもんでしょ。私が危ないもの捨ててあげて、警察と話しても、それっきりお礼も言わないの。忘れてるのかしら? たまに会うと明るく挨拶されるけど…ほんとはね、実はほかにもいろいろあってね…。まあ、とにかく正直あんまり会いたくないわ~」

彼らのいうことをすべて鵜呑みにするわけでもないが、証言は重なることが多く信憑性はある。

私個人的にはAさんに腹が立つことは少なかったが、とはいえ他のお客様がもやもやしている様は手に取るようにわかり、飲食店経営者としてはどうしたものかと思っていた。と同時に、実は、無邪気に人を不快にさせ続けるAさんという人に不思議な興味も覚えていた。

続く

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