お客様連絡帳 A様 その6

ある日やれやれ無事に帰ったな…
と食器を片付けていたら、Aさんのイヤリングの片方が落ちていることに気づいた。まだ近くにいるはず…と追いかけると、となりのコンビニで商品を見ている。すでにスーパーで大量の食糧を買っているのにまだ買うのか…とあきれながらも「Aさん、お忘れ物です」と声をかける。

イヤリングを見ると顔がバーッと輝き

「あんた、よく気が付いてくれたね!! これは一つなくしたらもう一つもダメになっちゃうからね。よくやってくれたわ。本当によくやってくれた」
「じゃあ店に戻らないといけないので。気を付けてお帰りくださいね」

「これは大好きなの。よく見つけてくれた。お手柄よ。あなたにはお礼をしなくちゃね!」

「じゃ、またお待ちしていますね」

これが、Aさんと会った最後だろうか。

その後何回か店に来てくださったかもしれないが、記憶がはっきりしない。
この前後にあるお客様から「あのおばあちゃん、夜の10時ごろだったかしら。道に突っ立ってるの。どうしましたかって言ったら、帰り道がわからないっていうのよ。私自宅を知ってるから連れて行ったわ」

という話を聞いた。
みんな、なんだかんだ言って心配してくれているのだ。しかし自宅がわからないとなると、これは本格的に心配だな…。

そろそろ施設に入ったほうがいいと思うが、とはいえどうしても入りたくないなら、息子さんと一緒に交番に行って気を付けてもらうようにお願いするとか、具体的に何か手を打たないと、場合によっては私が…
その時私はAさんの本名も、住所も知らないことに気づいた。女将とお客様の関係だから当たり前のことなのだが、毎日毎日こんなに話しているのに、私は彼女について肝心なことは何一つ分からない。
まちの蕎麦屋があれこれ知っているのもどうかと思うので、むしろその方がよいとも言えるけれど…。
彼女はそれからしばらく店にいらっしゃらず、数か月後、自宅でひとり亡くなったという噂が届いた。

タートル「そうか、ばあさん死んじまったか」
ワンピ「ま、誰もが行く道だからね」
タートル「しかしまあ、あのばあさん見てると『惜しまれる人になろう』と思ったよ。あのうちのことだから葬式だけは豪勢なんだろうけどよ、心から惜しんでる人なんかいないだろうしなあ」
ワンピ「ゼロじゃないでしょ」
タートル「腹の底はわかんねえよ。いやだから俺はさ、豪勢な葬式より心から『ああ、いい人だったな』と思われるように生きようと思ったね、葬式なんてふつうでいいんだよ。惜しまれて 惜しまれて散る 桜かな」
ワンピ「何それ」
タートル「ばあさんは反面教師ってこと」
ワンピ「確かにね。金があると、なぜか『私は偉い』と思いがちだからねえ、気を付けないとね」

その後も時折「あの、いつも来てるおばあちゃんは?」という話は出た。
私は「噂ですけど…」と彼女の死をお知らせする。

「そうか…それは残念だったね」と顔を見合わせる。
けれど時間が経ち、やがてみなAさんの不在にも慣れてきた。

彼女にはいつも座る定位置があって(体を預けられる柱があってお年寄りには人気のスペースだ)そこはあえて座らないように配慮していた人たちも、やがてふつうに座るようになった。

続く

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